Because of 鼻腔
ダジャレ大好き、、、
ライブハウスのにおいがかぎたい。
ふとそんなことを思った。
ある人にとっては匂いで、ある人にとっては臭いであろう、あの、煙臭くて、酒臭くて、で、ヒトの匂いがして、まあ夏ならば、汗のような色も滲んでる、あのにおい。
好きなにおいかと訊かれたら、好きとはまた違うと答える。
ふつーーーにいい匂いではないもん。
家に帰った時のあの服から滲み出るなんとも言えない煩雑なにおいよ。すぐさまかけたファブリーズも、次の日敗北の白旗を上げていたりするよ。
だけど嗅ぎたいんだ、あのにおいを。
通気性のいい場所でもなく、いやほんとまじ空気こもった空間だと思うよ、ライブハウス。
でもあの空気に、においに、からだをひたらせたい。
いい匂いはしないけれど、ライブハウスはわたしにとって、いちばん呼吸がしやすい場所だ。
副流煙? 知るか
耳栓を飛び越えて鼓膜を揺さぶる爆音は、痛くないくらいの心地よいモッシュは、自分の声の個体性を埋没する歓声や拍手は、わたしを水中に閉じ込めているようだね、と、そんなクサいポエムが浮かんだ。
水の中でゆらりゆらりと個体としてのからだを失ってさ、ここにいるけれど、「わたし」の顔を以てはここにいない、みたいな感覚。
ステージを見上げて、全部ぐちゃぐちゃに溶け合って、あの人もこの人もあの子もあいつも、確かにいるけど、可算の枠から外れた何かになっててさ。
きれいに個人を失えるなんて、素敵じゃないか。
からだのどこかに、嫌いなものがあっても、そのときだけは、同じ空間にいる誰かさんにそれを押し付ける、言い換えれば分け与えて、やたらからだが軽く感じられないか?
脳が嫌いなら、爆音に消されろ
からだが嫌いなら、モッシュに消されろ
声が嫌いなら、歓声に消されろ
そんな考えをした、5/22。
本来なら仙台でライブ観てた。
どーなっちまうんだこの世の中はよぅ。
実家のある田舎はやたらと人口密度が低くて、否応もなしに、自分を個体と認識させられる。
イヤホンをして、それでも街の喧騒を聞きながら、止まらない人の流れの中を歩いてく自分はさながらどこかに、アテもなく漂流する落ち葉みたいで気持ちよくなるとき、ないかい。
人混みは疲れる。
疲れるのに解放感で満たされる。
へんなの。
また密度にからだを沈ませる日がきますように。
それが街でも、ライブハウスでも。
からだを沈ませられたなら、また渋々と浮上して個体としての自分を認めてやってもいいぜ、と謎目線を、あなたにあいつに浮世に差し上げよう。
突出したいならすればいいし、埋没したいならすればいいのだ。矛盾したそれを並行して抱えたっていいのだ。
これでいいのだ。
どうでもいいけどバカボンのパパをはじめから「こいつぁバカボンのパパでありバカボンではない」と認識できる人って存在するん? 無理じゃね?
ポエム並べて、おわり。
またあのにおいを嗅げますように。